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私がおかしいのか?選挙って

2022.1.3…私はよく「なぜ大学院に入ったの」って聞かれてきた。もちろんなんとなく入ったのではない。1つには、拓殖大学院地方政治行政研究科なので、議会活動に直結した学びを得ることで仕事に深みが出て、それを久喜市発展に結びつけることが出来ると思ったから。これについては、例えば質問・質疑のやり方も明らかに変わったし、地方財政論、社会保障論、防犯・刑事政策、防災論、公共交通政策など専門に学んだので、私自身の政策の幅が確実に広がると思ったからで、現実にそうなっていると思っている。

 もう一つは、私が4年前に選挙というものを通して苦しい体験をしたことに基づいている。私は選挙というものは民主主義の根幹に位置しており、人々の自由や平等を守るためにこの仕組みが苦難な時代や長い時間をかけて今の形になってきたことを知っている。政策が基本にあって、例えば街の発展のために何をすれば良いのか、それを実現するためにどういった政策を考えるのかなどである。これこそを戦い合わせるのであって、それをみて、聞いて国民、市民が選んでいくのが選挙である。でも現実はそうなっていないことがほとんどである。大きな選挙であればあるほどそうだ。出ようとするものが出られないようにするための力や圧力にまず耐えることから始まっている。これを、理念や理論の面からもう一度見つめ直したかったことが理由である。

 私の年末からの動きや苦悩についてはこのブログに書いてきた通りである。また政策についても、集会所の件しかり、新庁舎建設の件しかりで、私は議員の立ち位置を考えて、自分を考えて賛成に回るようなことはどうしても出来ない。納得できないことはとことん聞くし、反対のものには反対する。これは議員として当たり前だと思っているけれど、だから議員がいるはずなのに現実にはそうではない。私がおかしいのだろうか?私は自分の考えに背を向けて行動することは、市民の方々を裏切ることになると思っている。

 大きな問題でこれだけ違うのに無投票であっていいはずがない。大きな問題で賛否を問うのは当たり前のことではないのか?選挙は戦いである。それは承知、でも本来はそれぞれの立場を守るために行うものではなく、市民のため、市の発展のためにこその戦いであるはずだ。少なくとも、おかしいといわれても私はそう思っているし、それが私だ。また苦しい立場に追い込まれても、どうなるか分からなくとも。そのために失うものも多い。政治家も人、だから苦しんできた。今もそう。でも、この根本にあるものを取り除くことはどうしても行かない。今日のブログは文章になっていないかもしれない、内容がおかしいかもしれない。でも、今の気持ちを率直に書いた。

 選挙って本来そういうものじゃない、そういうものであってもいけない。戦い方にもルールがあって個人的な恨みやつらみでやっては、そこには主役である市民もいない。

それだけです。

 

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